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Vol.19 「俳句」は日本の誇りです

タイトル

この面白さを知らないのは「もったいない」!

「日本の伝統芸能」というと、「古くさい」「堅苦しい」といったイメージしかない方もいるでしょう。普段接する機会が少ないと、これは仕方のないことかもしれません。私はなにも、「日本人ならもっとよく知るべきだ」などと声高に叫ぶつもりはありません。ただ正直なところ、「もったいないなぁ」とは思います。その理由は大きく二つ。一つは、単純に面白いからです。

そしてもう一つ、こういう伝統芸能に触れることは、自分に自信を持つことにもつながります。「茶の湯」「歌舞伎」「能」「俳句」「禅」は、数ある日本文化の中でもとりわけ完成度が高く、世界的にも評価が高いものばかり。「日本が誇る世界最高峰レベルの五本柱」といっても過言ではありません。これだけのものを生み出した人々の末裔であること、あるいはその言語や風土を共有していることを、私たちはもっと誇ってもいいはずです。経済のグロバール化が進む昨今、英語学習熱が高まっていますが、自国の文化について語れない人はいくら英語が堪能でも深い信頼は得られません。逆に、外国人から日本文化について話してくれと請われたとき、俳句などを例に挙げながら日本人の精神性まで説明できれば、きっと信頼と尊敬を得られるでしょう。

桜や富士に情緒を感じる日本人

日本のみならず世界でもっとも有名な俳句といえば、松尾芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」でしょう。ではこの句が奇抜かといえば、そんなことはありません。情景だけを説明してしまえば、子どもでも「それがどうした」と思うはずです。

それでも、人の心にもっとも残っている。吉田兼好は『徒然草』の中で「よき細工は、少しにぶき刀を使ふといふ。妙観が刀はいたくたたず」と述べていますが、まさに名人だからこそあえて奇をてらわないという趣があります。もちろん、個人の感覚もセンサーとしては大事で、これを働かせなければ、そもそも句になりません。芭蕉は、そのベースになるのが、日本人にとって普遍的な情緒だと考え、「奥の細道」の旅に出ました。

彼が訪ねたのは、歌人の西行がたどった道。和歌の伝統の残る名所旧跡(歌枕と呼ばれる)を歩き、情緒は個人の所有物ではなく、伝統の蓄積の中から生まれるものであることを再確認しました。「人間は最初から情緒は持ち得ず、いにしえの西行が桜や富士を歌ったからこそ、今の自分たちはそういう目で見ることができる。彼がいなければ、自分たちはそういうものを感じる素養を得られなかった」と芭蕉は考えます。つまり、当時の日本人にとっては「情緒= 共有された感覚」だったのです。

日本人のリズムにピタリとはまる「五・七・五」

俳句は、「五・七・五」という短さの中で、さらに区切ることができます。それも五と七と五がすべてバラバラに独立するというより、五対七・五か、五・七対五の形で分かれるのが一般的です。こうして区切ることによって、日本語としてもリズムが生まれます。「荒海や」と「佐渡によこたふ天の川」の間に置くひと呼吸が、この句をグッと読みごたえのあるものにしています。このリズム感は、私たちの身体感覚に根ざしたものともいえます。日本語は、まったく同じ間隔を空けて読むより、どこかで軽くひと呼吸を空けたほうが読みやすい。その曖昧な連なりが、「五・七・五」のリズムの根底にある。これが完全に切れていたら、「五・七・五」はけっして心地よくはならないでしょう。だいたい俳句は、情景の発見と、それによる心の揺れ動きを詠むものです。だから、まず何を発見したのかを伝える必要があります。たとえば「閑かさや」と言われると、何が静かなのか、と興味をそそられる。そこでしばらく間を置き、興味・関心を惹きつけてから「岩にしみ入る蝉の声」と続けば、この句の魅力は最大限に発揮されます。「岩にセミの声がしみ入っているのが静かなのか、すごいなぁ」となるわけです。常識的に考えれば、セミはうるさいはずです。しかし、ひたすらセミの声だけをシャワーのように浴びていると、むしろその中では静かさを感じずにはいられなくなる。その感覚は、たしかに「なるほど」と思えるでしょう。

森羅万象に感情を貼りつけた日本人

俳句は短い分、余韻が残るし、さまざまな解釈も可能になります。見方を変えれば、わからないものはまったくわからないということで、その解釈が面倒になって、俳句が嫌になる人もいるかもしれない。そこで、もっとオーソドックスに、まず有名な俳句の解釈を聞いて納得し、俳句ごと覚えてしまうといいでしょう。味わいながら感覚を掴み、自分の糧にするわけです。これは芸術を志す際の王道です。

まして俳句なら、覚えるのに苦労はありません。手帳やスマホにメモしておくこともできます。ポイントは、ふとした瞬間に思い出せるようにしておくことです。たとえば、夜空を見上げて天の川を発見したとき、「荒海や佐渡によこたふ天の川」が口をついて出てくればよい。「芭蕉もこれと同じものを日本海で見たんだな」と、この句を身近なものに感じられるに違いありません。あるいはうるさいセミの鳴き声に包まれたら、「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」を思い出す。芭蕉がなぜ「閑かさ」と表現したのか、本当に「岩にしみ入る」のか、身をもって理解できるでしょう。

こうして先人の感情の蓄積を自分の身体で再現できれば、世の中のあらゆるものが豊かに見えてきます。よく「独自の視点を持て」などといわれますが、何でもかんでも自分で発見する必要はありません。むしろ、多くの発見は他の人の発見の上に成り立っています。だから「五月雨」と聞けば、即座に「五月雨をあつめてはやし最上川」(松尾芭蕉)を連想する。すでに私たちは、多くの俳句が頭に入っています。その意味では、ゼロから学ぶ必要はありません。俳句への造詣を深める素養は、すでに十分に持っているのです。たとえば、一茶の句に「わんぱくや縛られながらよぶ蛍」というものがある。腕白小僧が叱られ、縛られ、それでもなお「ホーホー」と蛍を呼んで遊んでいるかわいらしい姿が思い浮かぶ。ハエでさえ「やれうつな蠅が手をすり足をする」が思い浮かびます。

つまり日本人は、小さなものから大きなものまで、森羅万象に感情を貼りつけてきたことになります。特に川や月のような自然への感情の貼りつき量は、並大抵ではないでしょう。この感性を、もっと誇りに思ってほしいと思います。

vol.19 ブンブンどりむ 保護者向け情報誌「ぱぁとなぁ」2021年2月号掲載

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