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Vol.1 「方言こそ日本の宝です」

タイトル

廃れつつある方言

私は二十一世紀の美しい日本語は方言だと考えています。方言には力強さや温かみがあります。私の考える美しい言葉の基準は、その言葉に「身体感覚」がどれだけ染み込んでいるかということです。

その点、方言にはその土地の風土が色濃く染み込んでいて、人間が五官で感じる感覚が言葉に込められています。長い年月をかけて、それぞれの土地の風土においてつくりあげられてきた身体感覚の結晶なのです。

これは大変な文化遺産です。身体の感覚は自然なものではなく、形に残りにくい文化的なものです。身体の感覚には、数千年、数万年の歴史が積み重ねられているのです。だから方言が失われてしまうということは、感覚の継承の大きな道筋が一つ断たれることを意味します。方言が伝えられることで感覚も継承されるのです。

今は、テレビやSNSが全国隅々に浸透し、若い人は誰でも共通語を話せる時代になり、その分方言の継承が弱くなってきています。私は静岡県の出身ですが、静岡はそれほど方言の強いところではありません。とは言いつつも、私の言葉はアクセントが違っていたり、語尾が妙に緩かったりして、ときどき人からは変だと言われます。自分ではたいして方言の影響を受けていないと思っているので、かえって直りません。その私が幼い頃、静岡の方言である「……ずら」を使う人がたくさんいたのですが、私の世代は「ずら」を使うことはほとんどなかったように思います。

方言には地方の風土と身体感覚が染み込んでいると言いましたが、それに比べて共通語には方言の持つ温かみが欠けていると思うのです。からだが揺さぶられる感じがしません。生きて働く身体の感覚が欠けているように感じます。こうした共通語を中心に全国各地で言葉の習得が行われてしまうと、身体感覚も自然と浅薄なものになってしまうのではないか、と心配しています。

方言の習得は身体のモードチェンジ

方言に翻訳すると、よく知っている文学作品でも、その姿を大きく変えます。

夏目漱石の『坊っちゃん』を鹿児島弁で読むと、野太く、気骨を感じさせる世界になり、太宰治の『人間失格』を広島弁で読むと、ちょっと開き直ったような、腹の据わった人間の言葉に感じられます。

私は以前、子どもの能力を引き出す授業の例として、大阪の子どもたちの授業を見せていただいたことがあります。その授業で方言の力に気づきました。その授業は始めるにあたって、全員が起立し、斎藤隆介さんの『八郎』を暗誦するのです。秋田弁で書かれた『八郎』の全文をクラスの全員がほぼ完全にです。この光景には圧倒されました。さらに、私がこの授業から受けたインパクトは、子どもの暗誦力だけではありませんでした。大阪の子どもたちが、つまり、普段はこてこての大阪弁でしゃべっている子どもたちが、秋田の方言である秋田弁を体に染み込ませている、ということに大きな衝撃を受けたのです。

担任の先生が「うちの子どもたちは秋田の子なんです。遊んでいるときも『おら、さみィ(い)』と言っていますから」と笑っていましたが、実は、これはすごいことなのです。

なぜなら、それは「大阪弁の身体」を持つ子どもたちが、「秋田弁の身体」ヘモードチェンジする技を身につけた、ということだからです。当然ですが、大阪弁と秋田弁とでは、言葉のリズムもイントネーションもアクセントも違います。このまったく違う言語を生活の中で使えるということは、単に単語として秋田の言葉を知っているということではありません。身体そのものをモードチェンジさせているということなのです。

地方出身者が東京に出てきて、その土地で生活することでバイリンガルになることはよくありますが、この大阪の子どもたちは、『八郎』の暗誦をくり返すことで、その土地に行くことなく、「身体のモードチェンジ」を可能にしたのです。これはすごいことです。

これまでは、それぞれの地にあって自分たちの方言を大切にするというところまでが限界だったように思います。そこを超え、自分の生まれた土地の方言だけでなく、ほかの土地の方言を練習して、抑揚などを身につけてしまったのです。この身体のモードチェンジによって、私たちの心とからだは解放され、方言にある不思議な生命力が私たちの身体に宿るのです。

方言に浸かってみよう

これに感動し方言にすっかり惚れ込んだ私は、多くの子どもが自分の生まれた土地の方言だけでなく、他の土地の方言も練習できるように、担当しているNHK Eテレの『にほんごであそぼ』でも、方言を扱うことにしました。「おはよう」や「ありがとう」といった基本的な挨拶の言葉を、いろいろな方言で紹介したり、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』を全国の方言で語る、ということもしたりしました。宮沢賢治は岩手県花巻出身の人なので、岩手弁はもちろんとてもしっくり来るのですが、実際に試してみると、広島弁の雨ニモマケズも、沖縄の雨ニモマケズも、土佐弁の雨ニモマケズも、みんなそれなりに味があって、とてもいいのです。

私はそれを見ていて、「日本語って本当に素晴らしいなあ。中でも方言は美しいなあ」とつくづく思いました。そして、「方言こそが日本語の宝だ」という確信をさらに強めたのです。

方言というのはおもしろいもので、相手が共通語で話していると出てきにくいものです。これは、共通語のモードと方言のモードの間には、はっきりとした境界線が引かれているからです。それぞれの方言にはそれぞれの身体のモードがあるのです。それを楽しんでほしいのですが、まずは共通語の身体モードから方言の身体モードへとチェンジすることが先決です。この大きな川を渡ることで、あとは存分に、方言の世界に浸かることができます。

そこで私は方言を「温泉」と捉えてみました。そこには、土地土地の方言にからだごと浸かってみてほしいという思いがあります。方言という湯に浸かることで、それぞれのお湯がもつ効能の恩恵にあずかれます。鹿児島弁の湯と、秋田弁の湯に浸かるのとでは、効果がちがってきます。からだに作用する効能がちがうのです。だから、気分や体調に合わせて、方言を選んで使ってみてほしいと思います。一度だけではなく、何度も使うと、温泉の効能はより高くなります。というのは、方言も一つの「技」なのです。何度も身体に染み込ませていくと、やがて自転車に乗る技術のように技になってきます。くり返すことで、からだを湯になじませ、方言の効能を堪能してほしいと思います。

vol.1 ブンブンどりむ 保護者向け情報誌「ぱぁとなぁ」2019年1月号掲載

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