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Vol.51 非日常を楽しみましょう
旅する価値の再発見
コロナ禍によって世の中は大転換を余儀なくされました。働き方、学び方、暮らし方、そして他人との繋がり方。これまでは当然のこととしてリアル主体だったものが、インターネットを活用することによって、多くのことをリモートで行うことになったのです。パソコンを開けば相手の顔が見え、話ができる。『ドラえもん』の「どこでもドア」とまではいきませんが、空間と移動、そして時間の感覚が大きく変化しました。
授業や打ち合わせの多くに、私もオンラインを利用するようになりました。その場に流れる時間や空気の感覚は、リアルにはかないません。ですから、できるだけライブに近い授業を作ろうと工夫しました。学生一同に顔を出してもらい、冗長にならぬようにストップウォッチで時間を区切りながら、次々と全員に発言をしてもらう。自宅でギターを奏でる者、北海道の実家から「うちの牧場です」と牛を映す学生もいました。学生のこれまでとは違う側面を知ることができ、時間軸はひとつですがそれぞれが異なる場所に居ることで、良い広がりが生まれたように感じます。
ですが、バーチャルでは代用できないものもあります。その代表のひとつが、旅することでしょう。空間を移動し、日常とは違う時間を過ごす。このことが、脳に多くの良い刺激を与えてくれるのです。『奥の細道』『伊勢物語』をはじめ、日本には多くの旅する文学があり、長きにわたって読み継がれています。
江戸時代の旅ブーム
特に大ベストセラーになったのが、ご存じ「弥次喜多コンビ」が、伊勢参りから始まって京都、大坂を巡る珍道中を綴った『東海道中膝栗毛』。伊勢神宮を参宮する客は多いときで年間50万人を超えたといいます。しかも、参宮客は農閑期にあたる正月から春先にかけて集中したといいますから、その時期のにぎわいたるや相当なものであったことがうかがえます。当時、旅は日常から逃避するための格好の手段でした。「伊勢参宮」という建て前を使い、旅に出たいという「本音」を成就させたのです。
『東海道中膝栗毛』と同じく大ヒットした書物に『旅行用心集』というのがあります。八隅蘆菴(やすみろあん)によって著され、江戸時代末期の文化7(1810)年に出版されています。「道中用心六十一ヶ条」と題した旅の基本的な心得や、「寒い国を旅するときの道具」「毒虫を避ける方法」「道中での日記の書き方」といった旅のハウツー、街道の道順、人足の駄賃などが記され、当時の旅人のバイブルとなりました。
その『旅行用心集』の序章は「伊勢参宮」の話題で始まっています。
「夫(それ)人々、家業の暇(いとま)に伊勢参宮に旅立するとて其用意をなし、道連等約束し、いつ何日(いつか)は吉日と定、爰彼(ここかしこ)より餞別物杯(など)到来し、家内も其支度とりとりに心も浮立斗いさきよきものハなし。」(『旅行用心集』八隅蘆菴著、生活の古典双書 八坂書房)
仕事のいとまに、もしくは仕事をやりくりして、伊勢参宮への旅を計画する。連れ立って行こうと約束したり、いついつが吉日だからその日に出立しようと決めたり、方々より餞別をもらい、家をあげての旅支度に心を浮き立たせていたりする様ほど、清々しいものはない、と八隅蘆菴は述べています。当時の人々が伊勢参宮をどれだけ楽しみにしていたかがよく伝わってきます。
また、その序文には旅の目的が「伊勢参宮」だけではないことが、明確に記されています。東の国に住む者は、伊勢から下って大和、大坂、四国、九州までの名所、旧跡、神社、仏閣を見物したいと思っている。西の国に暮らす人は、伊勢をはじめとして江戸、鹿島、香取、日光、奥州松島、象潟(きさかた)、信州善光寺参りなどを巡りたいと思っていると述べているのです。
こうなってはもはや、巡礼だとか、信仰の旅だとかといったことは名目で、どう見ても観光旅行ですね。一応は
「されば家内息災にて家業繁栄の徒、主人ハ勿論、家来、眷属(けんぞく)に至迄、伊勢参宮の願は成就する事のならわしハ、我神国の有かたきことならずや」(同前)
と書かれています。一生に一度伊勢参宮をすることは、神国(日本)のありがたい習わしだと敬虔な言い方ではありますが、その実態は楽しい旅行以外の何ものでもありませんでした。
非日常を新しい日常に
旅という非日常を楽しむことができるのは、いつの時代も大人の特権かもしれません。修学旅行の定番である京都も、子ども時代にはあまり面白かった記憶がありません。けれども大人になってから行くと、さまざまな発見があります。情報のストックをたくさんもっているからこそ、新たな出会いや発見を楽しむことができるのでしょう。
旅にはまた、時間の感覚を変える力があります。たとえば前日に嫌なことがあっても、旅をして帰ってくるとネガティブな感情が薄れている、そんな経験はありませんか。これは旅先という非日常を過ごすことで時間の密度が3倍にも5倍にも高くなって、それ以前のことをはるか遠くに感じるからです。少し不快なことがあったとしても、ルーティンな日常から一旦離れることで気持ちが上書きされてしまう。それもまた、旅の効能です。
『旅行用心集』の序文には、「貧賤にても其身壮健にして参宮旅行すること此上なき幸ひなりといふべし」ともあります。金のあるなしにかかわりなく、元気に参宮旅行ができることが何よりの幸せなのです。
なんとか事態も収束し、新しい日常が始まりました。オンラインによって生まれた時間活用術を活かし、これまで以上にライブを楽しむ。今年の秋は人気スポットを家族と一緒に訪れるだけでなく、自分だけの旅にも出かけてみるのもいいかもしれませんね。
vol.51 ブンブンどりむ 保護者向け情報誌「ぱぁとなぁ」2023年10月号掲載