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Vol.53 「礼」は形式的だからこそ意味があります

タイトル

「礼」の価値

 「礼儀作法」などと言いますが、「礼」とは、「社会生活をする上で、円滑な人間関係や秩序を維持するために必要な倫理的規範」(『大辞林第三版』)のことです。
 「お礼を言う」「礼を失する」「礼をわきまえる」「礼を尽くす」など、要は礼儀を重んじるということです。礼儀をきちんとすることによって、人間関係がきちんとする。
 現代では、「礼」は形式ばったもの、堅苦しいものであるといった、あまりよくないイメージがあるかもしれません。「礼は形式的だ」というのは、つまり、「形だけにとらわれて、本当に大切なものを失いがちになる」という批判です。この批判には一理あります。孔子自身も、「人にして不仁ならば、礼を如何せん」(もし「仁」という心の徳がなければ、「礼」があってもどうしようもない)と、このことを自覚していました。
 しかし一方で、この「形式的である」というところにこそ、礼の価値はあるのです。「内面の心こそが重要だ」というのは、たしかにそのとおりです。けれども、心の中で起こっていることは、外に表現しなければ誰にも伝わりません。
 また、それぞれが自分勝手なスタイルで外に表現したところで、それはやはり他者に通じるものにはなりません。ある決まった形、フォーマットがあるからこそ、それにしたがって内面を表現することにより、伝えることができるようになるのです。
 逆に言えば、形式の目的は、内面の「心」を伝える、ということにあります。ですから、「心がこもっていない形式」というのは意味がありません。さらに積極的に言えば、「形式を通すことによって心がこもってくる」ということもあります。礼をきちんと機能させていく上で重要なことは、それが形骸化しないように、けれども形式を保っていけるようにバランスを取りながら受け継いでいくことです。

剣道でガッツポーズがいけない理由

 日本古来の武道も、勝ち負け以前に、まずは「礼」の精神を身に付けているかどうかが重視されます。
 例えば剣道でも柔道でも、試合の前に礼をして、試合が終わったら礼をします。さらに剣道では、「面っ!」と言って、面を打ち込み、一本を取ったとしても、そこで選手がガッツポーズをしたら、その一本は取り消されてしまいます。剣道は、勝負の場においても「礼節を尊ぶ」ことを重視します。お互いを敬う心と形の礼法を指導します。全日本剣道連盟の「剣道の理念」には、「相手の人格を尊重し、心豊かな人間の育成のために礼法を重んずる指導に努める」とあります。
 それを受けて、剣道試合・審判規則では、「打突後、必要以上の余勢や有効を誇示した場合」、つまりガッツポーズなどをした場合は、「不適切な行為」とみなされ、一本を取った後でも「取り消すことができる」と定められています(規則第27条・細則第24条)。
 ですから、勝者が敗者の前でガッツポーズをすることは、礼に欠けた行為と見なされるため、一本が無効になるのです。そうすると、「礼」というのはある種のルール的な役割も持っていると言えます。さらに、この場合で言えば、ルール違反をしないためには、一人ひとりがそのルールを守るよう、『剣道の理念』を個人の内面に刻み込み、行動しなければなりません。

「礼」で「心」を制御する

 選手同士の関係を人間関係ととらえて考えれば、「礼」とは、個人の内側に刻まれた、ある種の「人間関係の決まり」でもあるわけです。自分ひとりの心の中だけでは、その自分自身の心ですらも、十分うまくは制御できないものです。ですが、「礼」という決まった形式に従うことにより、心を制御しやすくなる。ただ単に、「相手の人格を尊重しなさい」と言われても、何をどうすれば、「尊重した」ことになるのか、そしてそれを相手に伝えられるのかはわかりません。けれども、試合の前後に礼をするとか、一本を取ってもガッツポーズをしないとかが決まっていれば、実際に目に見える形で示すことができますし、チェックすることも修正することもできます。
 「形」にしてしまえば、それが誰にでもできるようになります。正確に言えば、誰もが「学んで習得できる」ものになる、ということです。

形式化されているから誰にでも通じる

 「礼」の基本である挨拶について考えてみましょう。「おはようございます」という言葉自体には、それほど深い意味はないと思われるかもしれません。しかし、これは言葉の内容よりも、そのように声をかけてお辞儀をすることで、相手を、そして相互の関係を尊重する、ということをはっきりわかる形で表現できるのです。
 だから、挨拶によって、人間関係が整う、そして、人間関係の束である社会が整う。「礼」というものは非常に不自由なようですけれども、定型があるということは、特に多くの人々が集まるような場所を整えるためには、非常に便利なものです。
 例えば、学校の卒業式の式次第で、校長先生の言葉や、校歌斉唱、来賓祝辞などの定型の順序を全部バラバラにしてしまったり、なくしてしまったりしたら、まるでパーティのようになってしまうでしょう。謝恩会と区別がつかなくなり、どうも式としての締まりがなくなる。何となく卒業した感じがしない。
 では、式にはいったい何の意味があるのかというと、一つひとつ解体していくと、実はそれぞれが絶対に不可欠なものというわけでもない。一つひとつは形式的でなくても問題ないように思えるものでも、その形式や順序をきちんと整えることによって、参加している人々の心が落ち着く。これが式のもたらす効果であり、つまりは「礼」の持つ効力なのです。
 さらに「礼」というのは組織や社会においても通用するものです。個人の心がきちんとしていれば、社会もきちんとする。一方、社会が乱れると、人々の心も乱れるという、相関関係にあります。人間の内面の性格と外側の社会・組織のルールへの振る舞い方を結び付けることが、「礼」を身に付ける上で必要な訓練になります。私たちは、他者と社会を形成して生きている以上、自分の属する集団社会の「礼」に従うことが大切なのです。

vol.53 ブンブンどりむ 保護者向け情報誌「ぱぁとなぁ」2023年12月号掲載

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