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Vol.58 「お茶」一杯に感じるもてなしの心

タイトル

「お茶」に価値観を創り出した千利休

 千利休は、わび茶の完成者として知られる、戦国から安土桃山時代にかけての茶人です。堺の商人の家に生まれた利休は、17歳のときに北向道陳(1504~1562)に茶を学び、19歳のときに道陳の紹介で武野紹鴎(1502~1555)に師事し、わび茶を学んだことで、師とともに茶の湯の改革に取り組むようになりました。
 私たちの日常生活の中で人が訪ねてきて、ごちそうしたり、お茶を飲んだりして帰るというのはよくあることです。その日常でもよくあることを「茶道」という芸術にまで高めたというところが、利休の創造力のすさまじいところです。茶の湯は、単にお茶を飲むだけのものではありません。お客さんを招き入れて、食事をしたりお茶を飲んだりして語り合い、気持ちよく帰ってもらう、そのすべてが茶の湯です。そして、そのすべてを気持ちよく過ごしてもらうための一連のプロセスを芸術にまで高めたのが茶道です。
 たとえば絵画や音楽など芸術というのは、普通の人にはできないような圧倒的な技術を身につけることで表現されるものです。しかし、お茶を飲んだり、もてなしをしたりすることの、どこにそんな違いを生み出せるでしょうか。
 利休は、そうした誰もが日常的に行っている「もてなし」に、統一した価値観を持ち込みました。利休による「美のルール」に則った「茶の湯」という文化を確立し、日本に広めたのです。

いまにも続く、もてなしの心

 私たちは普段、人をもてなすということを特別な美意識を持って行っているわけではありません。ざっくばらんに、「おいしいものがあるから来て」、「いいもの買ったから見せるよ」といった具合に気軽にもてなしています。
 相手にリラックスしてもらうことは大切ですが、完全に気楽だと相手をもてなしたことにはなりません。それでは充分でないというのが「お茶」の考え方です。茶道自体は利休が創始したものではないので、利休も先人からいろいろな作法を受け継いでいます。しかし、利休はそれだけで満足せず、そこに彼自身が工夫した、新しい作法を取り入れていきました。
 相手をもてなすには、やり方にある種の決まりが必要だが、かといって、全部ルールで決まっていたのでは面白くない。そこには何かしら自分の工夫も必要だということです。利休の発想については、いろいろな逸話があるのですが、最も有名なのは、やはり「朝顔の茶会」の話でしょう。
 あるとき、利休の庭に朝顔が見事に咲いているという話を聞き、秀吉が見にいくことになりました。天下人である秀吉がわざわざ来るというのですから、大変なことです。ここで普通の人であれば、咲き誇る朝顔をどうしたらきれいに見せられるかを考えるでしょう。庭を徹底的に掃除するかもしれません。ところが、利休の発想は常識を超えていました。
 いざ秀吉が利休の庭に行くと、なんとそこには朝顔が一輪も見当たらないのです。すっかり興ざめした秀吉が小座敷に入ると、そこに「色も鮮やかな朝顔の一輪だけが床の間に活けてあった」のです。秀吉はこの朝顔を見て上機嫌になり、利休はたいそうな褒美を賜りました。
 つまり、利休の工夫は、この一輪のために、庭に咲いていた朝顔の花を全部取ってしまうことだったのです。

実はお茶の味には無頓着?

 私は静岡県出身なので、お茶のおいしい、まずいはわかります。何しろ静岡県民はお茶ばかり飲んでいるからです。家はもちろん、学校給食のときに出るのもお茶です。茶の湯はお茶を飲むことが大前提なので、当然お茶の味にはうるさいのではないかと思うのですが、意外なほど味に関する話は出てきません。
 筒井紘一さんの『利休の逸話』という本には、三二四もの逸話が載っていますが、お茶の味そのものに関わる逸話は一つもありません。
 それは、利休が大事にしたのが、お茶そのものというよりも、お茶を一緒に飲むときの「空間」だからでしょう。その空間をいかにして祝祭的なものにするか、すべてはそのためのものなのです。お茶を飲むということ自体は、それを構成する一つの行為にすぎません。
 もちろん、もてなすのですから味のいいお茶を準備するのは当たり前でしょう。それを前提としたうえで、それよりも、たとえばお茶室を暖めておく、いつでも湯が沸いているように準備しておくといった心遣いのほうが重要視されていたのだと思います。
 利休が大切にしていたのは、お茶の味でもなければ、懐石料理の味でもありません。亭主の心遣いというものを最も大切にしていたのです。
 「茶の湯とは」と弟子に問われて、「これが全てです」と答えた「利休七則」というものがあります。

 一、茶は服のよきように
   (飲む人にとって加減のよいように)
 二、炭は湯の沸くように
 三、夏は涼しく、冬は暖かに
 四、花は野にあるように
 五、刻限は早めに
 六、降らずとも雨の用意
 七、相客に心せよ

 弟子が「そんなことくらいなら私でもできます」と言ったところ、利休は「もしこれが完璧にできたら、私はあなたの弟子になりましょう」と言ったそうです。「当たり前のことを完璧に」というのは難しいことです。
 いまは「もてなす」というと、豪華なものを振る舞うことのように思われていますが、本来のもてなしは、そういうものではかれるものではないということです。ささやかでも心遣いがあるもの。ただ、質素なだけではわびしいものになってしまうので、それはもてなしになりません。
 では、どうすれば質素でももてなしになるのでしょう。この答えは利休が言い続けていることの中にすでにあります。
 そう、「工夫」です。一期一会のライブ感覚の工夫を亭主自らが一杯の「お茶」にこめる。これが、もてなしになるのです。

vol.58 ブンブンどりむ 保護者向け情報誌「ぱぁとなぁ」2024年5月号掲載

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