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Vol.7 「形式的だからこ大切そなもの」

タイトル

「礼」を受け継いでいくための形

「礼」とは、「社会生活をする上で、円滑な人間関係や秩序を維持するために必要な倫理的規範」(『大辞林第三版』)のことです。

「お礼を言う」「礼を失する」「礼をわきまえる」「礼を尽くす」など、要は礼儀を重んじるということです。礼儀をきちんとすることによって、人間関係がきちんとします。

現代では、「礼」は形式ばったもの、堅苦しいものであるといった、あまりよくないイメージがあるかもしれません。「礼は形式的だ」というのは、つまり、「形だけにとらわれて、本当に大切なものを失いがちになる」という批判です。この批判には一理あります。孔子自身も、「人にして不仁ならば、礼を如何せん」(もし「仁」という心の徳がなければ、「礼」があってもどうしようもない)と、このことを自覚していました。

しかし一方で、この「形式的である」というところにこそ、礼の価値はあるのです。「内面の心こそが重要だ」というのは、たしかにそのとおりです。けれども、心の中で起こっていることは、外に表現しなければ誰にも伝わりません。

また、それぞれが自分勝手なスタイルで外に表現したところで、それは他者に通じるものにはなりません。ある決まった形、フォーマットがあるからこそ、それにしたがって内面を表現することにより、伝えることができるようになるのです。そのフォーマットこそが、「礼儀作法」なのです。

逆に言えば、形式の目的は、内面の「心」を伝える、ということにあります。ですから、「心がこもっていない形式」、「礼儀作法」というのは意味がありません。さらに積極的に言えば、「形式を通すこと=礼儀作法にのっとることによって心がこもってくる」ということもあります。「礼」をきちんと機能させていく上で重要なことは、それが形骸化しないように、けれども形式を保っていけるようにバランスを取りながら受け継いでいくことです。

形式化されているから誰にでも通じる

「礼」の基本である挨拶について考えてみましょう。「おはようございます」という言葉自体には、それほど深い意味はないと思われるかもしれません。しかし、これは言葉の内容よりも、そのように声をかけてお辞儀をすることで、相手を、そして相互の関係を尊重する、ということをはっきりわかる形で表現できるのです。

だから、挨拶によって、人間関係が整う、そして、人間関係の束である社会が整う。「礼」というものは非常に不自由なようですけれども、定型があるということは、特に多くの人々が集まるような場所を整えるためには、非常に便利なものです。例えば、学校の授業では、先生が教室に入ってきたら、「起立・礼・着席」をします。この手順を踏むことによってみんなの心が落ち着き、勉強をする態勢になる。また、先生も生徒も「これから授業をする」という意識、つまり秩序が生まれます。こういう「礼」は、スポーツチームや地域のコミュニティでも見られます。地域コミュニティなら、ゴミ出しのルールなどがあるでしょう。スポーツチームなら、その競技のルールを守るのはもちろん、チーム内のさまざまな「礼」があるはずです。

このように、「礼」というのは組織や社会においても通用するものです。個人の心がきちんとしていれば、社会もきちんとする。一方、社会が乱れると、人々の心も乱れるという相関関係にあります。組織がうまく円滑に運営されていくためには、運営のシステムが重要で、そのための決まりというものが必要になります。これも「礼」です。

違和感のある振る舞いへの不安

私たちは個人であると同時に、他者と社会を形成して生きている一員でもあるわけです。ですので、自分の属する集団社会の「礼」に従わなければなりません。例えば、行楽の季節にはBBQなどを楽しみます。けれども、終わったらゴミを散らかしたまま。日常生活でも、ペットボトルで飲み物を飲んで、飲み終えたらその辺に捨てていたり、電車の中で飲み終えたら、座席の下に置いて、自分は降車したりしてしまう。

これらのケースは、特に法律で定められていることではないので、見つかって注意されることはあるかもしれませんが、まず罰せられることはないでしょう。しかし、道徳的にはどうでしょうか。

私たちは、「法律的には許されるけれど、どうなんだろう?」という言い方をする時があります。法律的にだめなものと、道徳的にだめなものは範囲が違うということです。特に私たち日本人は他国の国民と比べても、自分の利益や権利というものを前面に押し出さず、いわば遠慮をしているわけです。自分たちの利益を主張するために、その範囲を広げようとするのではなく、少し遠慮して利益線のようなものを一歩後退させて暮らしている。そこのところをグイグイ来る人がいると、「何だかな」「みんな我慢しているのにな」ということになるわけです。

例えば並んでいる列に横入りをする人がいたとする。それは法律違反ではありませんが、違和感がある。つまり、人として信用できるのだろうか、自分はその人と人間関係を築いていけるのだろうかという不安を覚える。すると、そういう人は誰から見ても、非常識な振る舞いの人と見なされ、敬遠される。結果、人付き合いの範囲も限られていくことになるでしょう。

この「常識か非常識か」というラインを引くには、「社会的なセンス」が求められます。実は、この常識と非常識を選別するラインを適切に引くために必要なのが、「礼」のフォーマットである「礼儀作法」なのです。

礼儀作法は文化です。継承されてきた精神文化と身体文化が習慣として個人に身についたもの。日本人に受け継がれてきた精神文化と身体文化というものは、世界的に見ても非常に貴重なものです。今も残っているものは、日本の長い歴史を経て、人々に受け継がれてきたものばかりです。道徳というのは基本的には精神文化と身体文化を引き継ぐという意志、姿勢ならびに行為そのものですから、礼儀作法を学ぶということは、これらの文化を引き継いでいくということになります。

礼儀作法というのは、自分一人のものではありません。形成されてきた文化です。先人たちの叡智の結晶は、やはりよくできている。そう思いませんか。せっかく良いものが目の前にあるのですから、それを引き継いでみてはいかがでしょうか。

vol.7 ブンブンどりむ 保護者向け情報誌「ぱぁとなぁ」2019年11月号掲載

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