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Vol.71 社会は菌で溢れている。心と体に免疫を

タイトル

「雑菌主義」で生きよう

 「雑菌主義」あるとき大学の授業で、私はこう言いながら黒板に大書した。いまの学生はみなきれい好きだ。「雑菌」という文字を見ただけで、危険なウイルス感染をイメージするのか、眉間にちょっと皺を寄せる。
 「百年に一度の大不況といわれるいま、きみたちの前には、非常に厳しい状況が待ち構えている。就職できたとしても、その会社がずっと安泰である保証もない。このシビアな時代を生き抜くのにもっとも必要な力は何か、それは精神の強さだ。
 わが身にふりかかる不愉快な刺激やわずらわしい事柄などの雑菌に対して免疫をつけ、簡単にはへこたれないメンタル面のタフさをもつ。
 自分にとって不愉快な雑菌的なものを拒否し、排除して生きるのでなく、あえて積極果敢に自分のなかに取り込んで、自己免疫力を高める。そのような〝心の免疫力〟を、いまから習慣づけよう。
 これを私は〝雑菌主義〟と名づけたい。きっと、きみたちの成熟を生涯にわたって支えてくれる力となるだろう」
と、一息に説いた。
 大学生を教えていてしばしば感じるのは、純粋であること、感じやすく傷つきやすいこと、ナイーブであることを美徳のように思って、いまの自分を守ろう守ろうとする人が多いことだ。面倒くさいこと、わずらわしいこと、理解しにくいこと……自分にとって不愉快な刺激となるあらゆる物事を、極力避けようとする。
 そのために物事の判断を間違えやすい。本当にすべきことではなく、楽なほう、より不快でないほうを選んでしまうばかりに、結果として不利益を被っていることがしばしばある。善悪の判断が誤っているというよりも、経験知の乏しさを感じることが非常に多い。私自身、20歳前後の頃を振り返ってみると、やはり経験も心の耐性も足りなかった。あの当時の自分といまの自分とのあいだで何がもっとも変化したのか。エネルギーでいえば20歳頃のほうがはるかにエネルギッシュだった。
 しかし人間としての強さでいえば、いまの私のほうが何倍もタフだ。あの頃よりもいまのほうがはるかに多い量のさまざまなストレスや壁にぶち当たっているにもかかわらず、日常的にこなせている。自分自身で心の安定感をコントロールできている自信がある。四十有余年の間にいろいろな経験を積み、自己免疫力がついた。それらが抗体となっていて、対応が速やかにできるからである。そこで、あの頃の私自身にアドバイスしてやりたかったという思いもこめて、学生たちに話してみたのだ。
 出席カードの裏側に、毎回、授業の感想を書いて提出してもらっているのだが、その日の感想としては、「雑菌主義、すごく気に入りました」「心の免疫力という言葉、とても心に響きました」などといった好感触の反応が多かった。

バイ菌のもたらす効用

 随分前になるが、NHKの番組を観ていたら、興味深い調査結果が報じられていた。南ドイツで、農家とそうでない家庭の子どものアレルギー比率を調べたところ、農家で家畜と触れ合っている子どもは、アレルギーが非常に少ないことがわかったという。そこで、それぞれの子どもたちの家の埃を集めて細菌成分の量を調べた結果、農家には「エンドトキシン」と呼ばれる成分が多いことが判明した。
 エンドトキシンはいったい何に含まれているのか。最大の発生源は家畜の糞だそうだ。乳幼児期にエンドトキシンをたくさん浴びていると免疫ができるが、浴びずに育つと免疫システムが成熟できず、アレルギー体質になりやすいらしい。
 感染免疫や寄生虫学に詳しい藤田紘一郎さんは、生前50年以上にわたりインドネシア・ボルネオ島のジャングルの住人たちの健康を観察しつづけていた。糞便の混ざった河水を生活用水にするなど不衛生な環境。調べると、全員が寄生虫をもっている。栄養も充分に摂取できているとは言えない。にもかかわらず、住民の健康状態はよく、子どもたちの肌もつるつる。おまけに、アレルギー疾患をもっている人は一人もいない。
 研究の結果、やはり細菌や微生物、寄生虫のなかにある成分がアレルギーを抑えていることが判明しているそうだ。

クリーン社会の落とし穴

 糞の効用とまでは言わないまでも、日本でも家畜と共生しなくなり、汲み取り式トイレが水洗式に取って代わり……社会はどんどん衛生的になった。
 その結果、抗菌・除菌・消臭関連のグッズがもてはやされるようになった。前述の藤田紘一郎さんによれば、過剰な清潔志向がかえって不健康を招いていると考えられるそうだ。抗菌・除菌を謳うさまざまな商品が出回っているが、それらが悪い菌だけでなく、人間の体に必要な、いわば味方の菌までも殺してしまう。きれいにすること自体が問題なのではなく、やりすぎてしまうことで、自分を守る体の機能がどんどん衰えてしまうと懸念されている。
 そのあたりをしっかりと認識しながら、人間も、置かれた環境下で自己の免疫力を高めながら生きていくことがもっとも自然で望ましい。微生物などいてほしくないと思うところにいるのが「雑菌」であるとするならば、私たちの日常生活には、「こんな厄介なこと、不愉快なことは起きないでほしい」と願うようなことばかりだ。社会で生きていくことそのものが、いわば雑菌生活なのだ。
 だが、自分にとって厄介でわずらわしくて不愉快なことから学ぶことは実に多い。そもそも、仕事というのはわずらわしさの連続だ。種々さまざまなわずらわしさが、わらわらとふりかかってくるが、それを無視するわけにはいかない。その雑菌に慣れることで、仕事ができるようになっていき、人間として成熟していく。
 成熟するとは、資格試験に通って次のステージにレベルアップする、といったわかりやすいものではなく、地道な抵抗力の蓄積によって培われる。成熟なんかしたくない、抵抗力が弱くたって生きていける、弱いままでいいじゃないかと開き直ってしまう気持ちこそ、長い目で見たときに自分を不利益に落とし込む判断だ。
 世の雑菌をしっかりと理解することこそが、免疫力の高い人間になれるのだ。

vol.71 ブンブンどりむ 保護者向け情報誌「ぱぁとなぁ」2025年6月号掲載

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