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Vol.73 山で深呼吸をしましょう

タイトル

自然と身体をつなぐ回路の再構築

 地球上の陸地のうち約30%(約4000万km2)は森林であるといわれています。しかし、毎年、森林が減少しており、深刻な問題となっています。森林が減っている地域は世界各地様々ですが、このまま森林が減り続ければ、すでに崩れ始めている生き物たちの暮らす自然環境のバランスはいっそう崩れ、人間の生活にもさらなる悪影響が及びます。
 いまここで、立ち止まって、人間と自然をつなぐ回路を見直し、人工的な生活によって希薄になってしまった身体感覚を取り戻さなければなりません。自然と人間の関係をつなぐ技の再構築です。
 たとえば、ろうそくの炎を見つめる。できるだけ瞬きをしないで30分以上見つめ続けます。これは瞑想法の一種ですが、何日か続けていると、変化が起こってきます。ろうそくの炎はささやかなものですが、一刻一刻姿を変えるので見飽きることがありません。色合いも常に微妙に変化します。炎が顔などの様々なものを連想させます。
 「生命の炎」という比喩があります。私たちの身体は日々新陳代謝をくり返しながら死へと向かっています。生きているという生命の持続感をもちつつ、実体としての身体は、微妙に変化し続けています。ろうそくの炎もまた、炎という現象の一貫性は保ちながらも変化し続け、やがて終末を迎えます。ろうそくの長さという寿命を待たずして、突風によってかき消されることもあります。これもまた生命と似ています。生命は実際に、エネルギーの燃焼でもあるのです。
 変化は、ろうそくの見え方だけではありません。炎を長く見続けていると、ろうそくの炎を見ていない時でも心の中に炎が燃えているような気がしてきます。これは、目を閉じてろうそくの炎をイメージする感覚とはまた違うものです。意識的に映像を思い描こうとしなくても、身体の中に炎が燃え続けている温かさを自然と感じるのです。
 炎は自然の現象であり、私たちの心とは別物です。しかし、炎を見続けることによって、自然現象としての炎が私たちの心の中にしみ込んできます。一回見ただけでは定着しない炎のイメージも、凝視の反復によって、経験の質的な変化を起こすのです。そしてこの自分の身体の内に炎をもつという感覚は生きている実感を支えるポジティブな感覚です。

自然を受け入れる「技」

 似たような経験として、ハミングがあります。私は以前、聴覚発声訓練のためにハミングの練習を集中的に行ったことがあります。そこでのハミングは、唇を鳴らすというよりは、頸椎から後頭部へかけての骨を鳴らすという感覚で行うものでした。先生のハミングはさすがに見事で、小さな音なのに部屋全体に響き渡ります。どこが音の発信源なのかわからないぐらいに、部屋全体が音の響きで満たされます。この先生が大きなホールでハミングするのを聴いたことがあるのですが、このときはピアニッシモのハミングが一番後ろの客席にまで響いてきました。
 このハミングの練習は、空間と自分が音の共振によってつながっているのだという実感を深めてくれました。音が振動であるということは知識では知っていましたが、それを深く実感するためには、自分の骨が響く感覚を「技」にすることが必要でした。音を受け取る場合も同様です。微妙な音を感じ取るためには、身体が硬直しておらず、緩んでいる構えが必要です。心身の構えがうまくできていないと、チューニングの悪いラジオのように、音や電波が空間にあふれていてもそれを感知できにくいのです。
 人間の身体は、それ自体が自然そのものです。そして各感覚器官が周囲の環境からの刺激を受け取ります。しかし、身体感覚にも一種の技のレベルがあります。同じ環境に数人がおかれたとしても、みなが同じ身体感覚を得ているわけではありません。感覚が技として研ぎ澄まされた人とそうでない人とでは、異なる環境が現れるのです。

感覚を味わう

 自然と響き合い、深く呼応し合うべく身体感覚を技化することができた人物として宮沢賢治がいます。彼は岩手山で夜を過ごすことを好み、朝あさ靄もやが立ちこめるその瞬間に法華経的世界が現れるのを感じていました。水分を多く含んだ世界は、響きをよく伝え、また光を多く反射します。世界と身体は美しい響きと光に満たされます。
 こうした至福の経験は普通の人間にも偶発的に訪れることがあります。しかし宮沢賢治の面白いところは、こうした瞬間を自在に反復することができたということにあります。つまり身体感覚が技化されていたということなのです。
 彼は、地水火風のすべてに関して独自の技を練り上げていました。硬い岩をハンマーで砕く感覚や、刃物や宝石を研ぎ磨く感覚、あるいはどろどろの湿地を歩き回る感覚など、こうしたものも単なる想像ではなく、何度も自分の身体で体験したものばかりです。
 感覚は通常は一回きりのもののように思われていますが、積極的に味わう構えをもつことによってくり返し引き起こすことができます。感覚が技となって、自然と身体の間にいくつもの響き合う通路や回路ができてくると、身体がミクロコスモスだという認識がリアリティを増してきます。
 山や森林には、「ストレスホルモンを減少させる」、「がん細胞などを攻撃するNK(ナチュラルキラー)細胞を活性化させる」、「血圧を正常化させる」などの様々な機能があるといわれています。
 そのことから、ハイキングやトレッキングなど山や森林に何かをしに行くのではなく、「木々のもつ機能に何かをされに行く」という言葉も登場しています。森林空間に行く、そのことだけでも効果があるからです。

深呼吸をしましょう

 さあ、山や森に出かけ、大きく深呼吸をしましょう。深呼吸とは、肺の中の空気をできるだけ多く出入させる深い呼吸のことです。「3秒かけて鼻から息を吸い、2秒間グッと息を溜め、15秒かけて口からゆっくり息を吐く」これを6回程度くり返します。ゆっくりと呼吸をしていると森の中の香りや音が次第にはっきりと身体の中に入ってきます。
 山国日本、その恩恵をより効果的に享受するには、人体側の受け皿である身体感覚を研ぎ澄まし、しっかりと自然と共生することが大事なのです。

vol.73 ブンブンどりむ 保護者向け情報誌「ぱぁとなぁ」2025年8月号掲載

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